スポンサードリンク

幸福の本質に切り込む。唐辺葉介作「つめたいオゾン」感想

 

小説日記

 


こんにちは、タコヤキです。

 

昨日唐辺葉介の「つめたいオゾン」という小説を読み終わりました。その感想を書いていこうと思います。(ネタバレあり)
SFっぽくもありながら、愛や幸福の本質についても考えさせられるラノベとは思えないほどの密度です。

 

 

 

夢や感覚を共有していくという奇病に患っているメインキャラの男女2人、脩一と花絵の生い立ちが本の2/3を占め、残りの1/3が2人の話という構成です。

 

2人の生い立ちはどちらも非常に悲惨。
普通の人からみたら唖然となるレベルの生い立ちです。

 

その生い立ちが一人称視点で淡々と綴られていきます。
2人は当時は子供なのですが、泣いたり怒ったりというよりは、悲劇を受け入れてながらも幸福や充実を追求し、生きていきます。
脩一は将棋に幸福、充実を見出し、花絵は病気で脩一の視覚を共有することで、脩一の人生を垣間見ることで幸福を見出そうとします。

2人が実際に邂逅した後は徐々に病に犯されていき、日常もままならなくなり脩一も将棋の道を諦めることになってしまうわけですが、それでも2人は幸福の追求をやめる事はしませんでした。

 

この物語の読みどころは大きく2つのテーマがある。
1つは病気に関する事で語られる、人間の集合的無意識に関する話。
アニメで分かりやすく言うならば、「新世紀エヴァンゲリオン」などが当てはまる。
人間は1つの大きな脳に接続されていて、人間の肉体は1つの端末でしかないということ。そして精神はその大きな脳の一部で、本当は全員精神的には繋がっているというという話。

花絵は自身の病気を勉強していくうちに、精神は肉体と分離できる可能性を信じるようになります。
だから肉体が死んでも悲しいことではないと。
そして2人がそれを受け入れていく過程がまたなんとも美しい。
しかし他人から見たらやはりそれは不幸な事にしかみていないところも胸を揺さぶられる。そんなSF小説のテーマが鮮やかに描かれている。

 

もう1つは愛についての話。
この小説に出てくる登場人物は皆、どこか歪んでいて、それを踏まえて愛を求めている。
これは脩一と花絵だけに留まる話ではない。SFの話もあるが、メインはこちらだと僕は思う。

2人の親や伯母などは皆、何かに固執していて歪んでいる。脩一の母は異常なほどの教育っぷり、花絵の伯母は社会的弱者をやたら支援する人間。
どちらも親ではあり育ててくれた人であるが、理解できず、価値観も共有できない。決して交わる事のない境界を感じる。しかし彼らはそれを正しいと思い込んでいるし、彼らが思っている事を実行することで、幸福を得られると彼らは信じ込んでいる。

花絵に乱暴したカエル男や監禁した男も愛を求めていた。
そんな身勝手な男の欲望のはけ口となった花絵だが、花絵は彼らを責めることはしなかった。
それは何故だろうか?


彼らも愛情で満たされて幸福になろうとしたところは自分となんら変わらないからだ。


花絵は幸福になろうと必死な彼らを責めても仕方ないと思っているからだ。

花絵の幸福は脩一だった。脩一のために死のうともしたが、脩一にそれを拒絶されて花絵は自分の行為を悔やむ。


花絵は脩一に関係するときぐらいしか感情が揺れ動かなくなっている。
だから2人が完全に意識を共有し、混ざってしまう最後のと時も花絵は笑っていられたのだと思うのだ。
花絵は幸福だったと思っている。

脩一も本質的には変わらない。
脩一は将棋の道をあきらめるという悔しさを経験したが、それでも幸福だったと認めている。それは花絵と混ざり合っても変わらない事実で、脩一も混ざり合う事を自然と受け入れている。
脩一も幸福であったのと思っている。

 

2人の幸福という形は他人には受け入れられない、個人的で主観的なものでしかない。
そこには他人が介在する余地はない。たとえそれが人形のように見えてもー。

 

この物語の登場人物は皆、歪んでいるなりにも幸福、愛情をひたむきに求めているという美しい物語である。
そしてもし人間が大きな脳に接続されているとしたら、全ての人間は幸福になれるのだろうか?

 

以上、「つめたいオゾン」の感想でした。
ぜひ読んでみてください!

 

 

こちらもオススメ!唐辺葉介の「psyche」もいかがでしょうか?

 

takoyakitanosiku.hatenablog.com

 

ーそれでは、また。